《 揚 輝 荘 》


 元々は松坂屋の前身でもある「株式会社いとう呉服店」の初代社長・伊藤次郎左衞門祐民の別荘として、1万坪の森を拓いて築かれた。 大正7年(1918年)に最初の建物が移築され、修学院離宮を参考にした池泉回遊式庭園が造られるなどして、最終的に完成した昭和12?14年頃には移築・新築された30数棟の建物があったという。 大正から昭和初期にかけては皇族や華族、政治家や著名人の他に外国人も多数訪れ、国内からの寄宿生に加えて留学生の受け入れも行っていた。 昭和20年(1945年)3月24日に空襲を受けて建造物の多くが焼失。また戦中は日本軍に、戦後は米軍に接収され、その後は松坂屋独身寮として使用された。 敷地の多くが開発されて庭園も南北に分断されたが、数棟の貴重な建物と庭園が残されている。現在は名古屋市に譲渡され、NPO法人揚輝荘の会が管理を行っている。
◆鈴木禎次は、名古屋の近代建築の巨匠、夏目漱石の義弟であり、名工大(名工専)教授。鶴舞公園の噴水塔・奏楽堂を手掛けた方だと言えば判りやすいかも知れない。 現在の松坂屋本館もそうです、邸内にはいたるところに和洋折衷で色々な細工や工夫や遊び心などが盛り込まれています。
現存する建造物
◆北庭
・三賞亭:大正7年、茶屋町本家から移築された揚輝荘で一番最初の建物。煎茶茶室。
・伴華楼:尾張徳川家から譲り受けた茶室付き和室だが、移築にあたって鈴木禎次の設計による地階と1階洋室が増築された。なお「伴華楼」はバンガローのもじりである。
・白雲橋: 修学院離宮の千歳橋を模した亭橋(屋根のある橋橋の中央部に少亭を設けたもので廊橋の一種)で北庭園のシンボル。
・豊彦稲荷:昭和初期に松坂屋京都店から勧請された稲荷神で、かつての仙洞御所に置かれた御所稲荷(豊春稲荷)を本社とする。
・野外ステージ:石張りの半円型客席が設置された円形ステージ。
◆南庭
・聴松閣:ハーフチンバーの山荘風に造られた地上3階・地下1階の建物。祐民氏が、1934年(昭和9)にインド・タイなど、仏跡の地を旅行した時のイメージをこの建物に写したといわれています。外観は山荘風、室内はチューダー様式・中国風・インド風などがミックスされ、施主の趣味、遊び心、センスがふんだんに盛り込まれており、豪華さ・重厚さには目を見張るものがあったことでしょう。
・揚輝荘座敷:現在の大津通りの松坂屋本館の地(当時は矢場町五ノ切)にあった屋敷をここに移築したものです。 ここへ移築する前には、川上貞奴が一時住んでいたといわれています。(東区撞木町に再構築された二葉館はその後に建てられたもの)当初は、茶室、暮雪庵と渡りでつながっており、2つの土蔵・坪庭・サンルームもあり、当主が住んでいたこともあるハイレベルの座敷だった名残が各所に見られます。 弁柄色の壁や聴松閣をつなぐ渡り廊下に独特の雰囲気が残っています。
かつてあった建物(一部)
・有芳亭 - 尾張徳川邸から移築した迎賓館。
・栗廼屋 - 岐阜県細野から移築した約500年前の古民家。
・不老庵 - 享保年間(1716?36年)に造られた茶室。
・端の寮 - 徳川家から移築。大石内蔵助にゆかりの建物。
・四阿 - 八丈島より移築された穀倉。
・暮雪庵 - 本家から移築。2003年に織部の里に再移築された。
・揚輝荘トンネル:聴松閣とかつての有芳亭、更に現在の姫池通に面した位置に建っていた愛知舎の付近を結んだ総延長170メートルのトンネルが見つかっている。内部にはインド・イスラム様式のレリーフや壁画が残されているが、何の為に造られたかは解っていない。
2007年初夏の一時期には、姫池通沿いのマンション工事現場に露出したトンネルの様子を見る事が出来た。
揚輝荘の北園にある庭園は、池を中心とした回遊式の庭園です。修学院離宮の千歳橋を模したといわれる白雲橋、伴華楼、三賞亭などの建物が、緑のゆたかな庭園内に残されています。(申込不要) 休園日は毎週月曜日(月曜日が祝祭日または振替休日の場合は翌日)、年末年始、イベント開催時等。


  伊藤家の祖先は伊藤蘭丸祐道(すけみち・19歳)は、信長の側近として八百石の禄を受け、清洲城に詰めていた。絶頂期にあった主君の突然の死を知り、呆然自失、なす術を知らなかった。   信長の側近として蘭丸は3人いた森蘭丸・伊藤蘭丸・早川蘭丸の3人で「織田三蘭丸」と言われ伊藤蘭丸はどちらかと金庫番と言われています。マツザカヤのカトレアはこのランが由来とか
その後、祐道は二君に仕えることを望まず、浪人となり、清洲城下に閑居した。時は流れ、慶長16年(1611)の秋、祐道はすでに48歳になっていた。 世の流れが急速に変わる中、戦国時代は終わったと悟り、これからは商人の時代だと達観した彼は、妻と次男祐基を連れて清洲越えを決断し、名古屋の本町にささやかな呉服小問物問屋を開業した。 大坂夏の陣の直前、慶長20年(1615)2月15日、蘭丸祐道は何を思ったか突然、商いの道を捨て、後事を妻(久々利・千村氏)に托して大坂豊臣方に就くべく旅立ってしまった。“なぜこの期に及んで"の疑問についてはミステリーに満ちている。
1659年 - 祐道の遺児・祐基が名古屋茶屋町に呉服小間物問屋を開業。 1736年 - 呉服太物小売商に転業。これが後のいとう呉服店(松坂屋の前身)である。
初代:第14代伊藤次郎左衛門(祐昌)2代:第15代伊藤次郎左衛門(祐民)3代:第16代伊藤次郎左衛門(祐滋)
◆松坂屋:江戸郊外の上野にあった呉服店・松坂屋を買収した際、江戸の屋号はそのまま「松坂屋」を使用したが、これは既に江戸市中に松坂屋の名前が知れ渡っていたため、本来の「いとう屋」に変更するよりも得策と判断したからである。
「松坂屋」のそもそもの由来は、上野の店が1707年に(現在の松阪市中心部に当たる)伊勢松坂出身、つまり松阪商人の太田利兵衛の手により開業した事によるもの。
◆伊藤銀行(東海銀行):尾張藩御用達商人「いとう呉服店」(現松坂屋)当主である第14代伊藤次郎左衞門(祐昌)によって、名古屋最初の私立銀行として、1881年(明治14年)に資本金10万円で設立。 この当時の建物についていた紋章が聴松閣の庭においてある。 その後、1941年(昭和16年)に名古屋銀行、愛知銀行と合併し、東海銀行を新たに設立。現在東京三菱UFJ銀行。


  初めて行ったのですが入口が分からずここは1方通行で分かりにくい場所でした、駐車場がないので自転車かバイクか歩きです。 日泰寺の門の東側の坂の途中に入口があります。 ちょうどこの日は揚輝荘を代表する建物である伴華楼(ばんがろう)と南庭園、北庭園のガイド付き見学の日だったのですが申し込みがないとダメということで園内を撮影して帰ろうかなと思い1周して帰りかかったら 係りの方が特別に見学会のメンバーに入れてくれるというので入れてもらいました、普通はハガキで申し込み抽選で当たらないとだめみたいです。(聴松閣の建物見学は、復元工事のため平成20年5月3日(土)で終了)
聴松閣は駐留軍が屋敷内の壁や天井と暖房装置などの配管がされて復元工事ではこれらの配管は取り外され昭和、屋根や壁は2重構造になっていて一部天井をはがしてありましたが中は昔のままになっていました。 これらが元通りになるとさらにすばらしいですね、ふつう駐留軍が入ると壁や天井をペンキでべたべたに塗ってあるのですがここはよかったですねその後は松坂屋や常盤学園の女子寮などになっていたそうです。
11月の終わりに紅葉が見頃とのことで行きましたが、丁度よくてきれいでしたここの木々は庭が古いのでモミジなども他の大きな木の下などで余りぱっとしいですね、このときも見学会があり定員が少ないとのことで便乗させて頂きました。 伴華楼の2Fからみる紅葉は綺麗でした、南園も見れたのですが聴松閣は工事中とのことで中は見られませんでした、その代り庭の部分を見ることができました

問い合わせ:TEL 052-759-4450
住 所:〒464-0057 名古屋市千種区法王町2丁目5番地21 
 揚輝荘のホームページです。 http://yokiso.org/


《 揚輝荘・2008年4月・新緑 》
伴華楼
伴華楼
信長塀他
白雲橋
三賞亭
聴松閣
聴松閣
揚輝荘座敷
未 定
《 揚輝荘・2008年11月・紅葉 》
伴華楼
入口・1階
伴華楼
2階
信長塀
豊彦稲荷他
三賞亭
白雲橋
聴松閣
揚輝荘座敷
《 揚輝荘・2013年11月・紅葉・聴松閣改装 》
聴松閣1F
聴松閣2F
聴松閣BF
揚輝荘・北園
未定
未定